佐藤は電車の中にいた。
窓に映った自分の顔に苦笑する。こんな顔をしているなんて。
岸丸金属工業株式会社 営業副本部長。
社会の荒波を15年以上ももがき続けてやっと手にしたこの地位。
少なくない同期の中で一番早い副本部長への昇格だ。
それを手にすることができたのは、これまで心がけてきた自分の慎重さがあってこそだと、佐藤は自認していた。
この社会は一つでもミスをしたらお終いだ。
だから確認は入念に何度も行なう。取引先とのやり取りには書面を使う。酒も飲まない。
だが、人のするミスは防げなかった。
取引先の怒りの電話を受け、若い部下は泣き出しそうな顔で言った。
「佐藤さん、どうすればいいでしょうか」
佐藤はアドバイスができない男だった。
助言をするということは、その言葉に責任を持つということなのだ。
(私はアドバイスをしない、絶対に)
そうして佐藤はその若者を置いて、客先への訪問を口実に逃げてきたのだった。
気分を落ち着かせるため、席に座ってスマホを傾ける。
Clash of Clans。
佐藤が人知れず熱中しているゲームだ。
自分の村を地道に作り、攻撃から資源を守るゲーム。佐藤はその堅実なゲーム性に惹かれていた。
近頃電車ではパズルゲームをしている若者をよく見る。
佐藤には高校生の娘がいる。娘にもクラクラを勧めたいと思っているが、勉強の支障になると思うと、なかなか進めることができない。
佐藤の所属クラン「メゾン・ド・ドッグス」のチャットは、今日もにぎわっている。
aki 2分前
今日のテストも終了^^ 結果は、まあまあかな!
yuzy 1分前
akiちゃんお疲れ!
佐藤
akiさん、お疲れ様です!
リーダーのyuzyがログインしているようだ。
礼儀正しく、頭の切れるリーダーだ。年下のようだが、佐藤は密かに尊敬していた。
山手線の電車は、田町駅を通過する。
佐藤に行くあてはなかった。会社に帰ったらトラブルは収束しているだろうか。
きっと私以外の誰かがあの若手に助言しているに違いない。
佐藤はまたチャットに目を落とした。
レッド 1分前
初めてドラゴンラッシュしました!あんまりうまくいかない……(´・ω・)
ゴールド・ロジャー
ドラッシュなら、佐藤さんが上手だよ
レッド
佐藤さん、ドラッシュはどうしたらうまくいきますか?
アドバイスをお願いします!
「佐藤さん、どうすればいいでしょうか」
先ほどの若手社員の声が脳裏によみがえる。
やめてくれ、私にはアドバイスなどできないのだ。
電車は品川駅に到着した。
佐藤は、慌てて立ち上がり、部下の声も、クランのチャットも振り切るように足早に電車を降りた。
* * *
港南口の広場のベンチに佐藤は腰を下ろした。
道行くサラリーマンたちは皆、真剣な面持ちで通り過ぎていく。
あの人たちもまた、自分以外の誰かの責任を背負い込んでいるのだろうか。
クランのチャットは相変わらずの速度で流れている。
レッドというメンバーは、まだしつこく私を探しているようだった。
レッド
佐藤さん、もし見ていたら僕のリプレイ見てくれませんか?
リプレイは見た。しかし私は……。
泣き顔の部下の、まっすぐに見つめてくるその目が、もう一度佐藤の頭の中に張り付いた。
少し考えて佐藤は、少しだけ指を動かした。
佐藤
レッドさん、ドラッシュなら3時でなく7時方向の方が対空砲まで短い。
それにサイドカットは両サイドの金庫を先につぶすこと。でないと、本隊が中に入れませんよ。
送信ボタンを押したときには、佐藤は顔を紅潮させていた。
人に助言することなど久しくなかった。これでレッドというメンバーが攻撃をミスしたら、自分のせいになったりしないだろうか。
佐藤が自分の発言を半ば後悔し始めたとき、チャットが動いた。
yuzy
さすが佐藤さん、的確ですね。
minoru
自分も勉強になりました。ありがとう佐藤さん
レッド
佐藤さん、すごい!
ありがとうございます!
佐藤は無意識に立ちあがっていた。
スマホを見つめたまま、佐藤は流れていくチャットをただ見ていた。
これまで、人に助言をして喜ばれたことがあったろうか。
若手の頃、商品に対して不明確な説明をした結果、客が誤解し、長いこと怒鳴られたことを思い出した。
ああ、あれからだ。
自分が責任を負うことから逃げるようになったのは。
自分の意見を外に出さず、事実のみを伝えるようになったのは。
あれからだ。人と話すことが怖くなったのは。
佐藤は興奮を抑えつつ、素早く指を滑らせる。
佐藤
分からなければまた聞いてください。
私は仕事に戻ります。
佐藤はスマホの電源を落とすと、駅へ続く階段を駆け上がった。
佐藤は長らく覚えることのなかった喜びを全身で感じていた。
人に助言を求められること、こんなに嬉しいことはない。
今自分が責任から逃れたら、客のクレームを浴びた彼は、人と話すのが怖くなる。
仕事をするのも怖くなる。
それこそ、私の責任になるではないか。
佐藤は品川駅の構内を、ひたすら走った。
改札を抜けて山手線のホームまで、頼りなかった昔の自分を振り払うように駆け抜けた。
佐藤は営業副本部長としての第一歩を踏み出した。
※本作は以前投稿したもの加筆・訂正したものです。
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