「美樹、今日は何時間勉強したんだ」

それは父の善純が家に帰ると、毎日問いかける決まり文句だった。

 

2時間くらい」美樹はなるべく父の表情を見ないようにして答える。

「お前な、2時間くらいの勉強で大学になんか受かるものか。

もういい加減、塾に行きなさい。そうすれば一日4時間は面倒を見てもらえるはずだ」

 

善純は妻に塾のパンフレットを集めてくるように言いつけると、ネクタイを外しながら部屋を出て行った。

 

本当は勉強なんか少しもしていなかった。

美樹には勉強なんかより、よほどやりたいことがあった。

 

一緒にバンドを組んでいる秋が、本気になってくれたのだ。

これまで、何故かライブの途中で飽きてしまっていた秋が、最後まで本気で付き合ってくれるようになった。

 

それは、秋が紙袋をかぶってライブをした時からだった。

「こうしていると、余計なものが見えなくなるんだ」

そんなことを秋は言っていた。

 

それから、制服と紙袋という奇妙さが目を引き、より多くの人が立ち止まってくれるようになった。

そして二人とも紙袋をかぶってライブをすると、さらに観客が増えた。

 

だから今は、勉強なんかどうでもいい。もっと大事なことがあるのだから。

 

美樹は絨毯に寝転がり、スマホを触る。

Clash of Clans。最近美樹の高校で流行っているゲームだった。

 

クラクラは、美樹のストレス解消になっていた。

その間は、勉強のことも、一年後の大学受験のことも忘れられた。

 

美樹は通っている高校のクランに所属している。

クラン「星川高等学校」には1年生から3年生まで、45人ほどが在籍しているクランだ。

 

みき。

父親に勉強しろとか言われて激萎え中www

 

Shota

俺も。この間テスト悪かったから何回も言われてマジウゼエ

 

リンリン

担任のよっさんも受験受験毎日脅してくるwww

いいんだよ、ウチらには勉強よりもっと大事なことがあるしwww

 

ほら、やっぱりみんなそうなんだ。

勉強しかやってこなかった大人からすれば、勉強をするのは当たり前かもしれない。

 

でも、そんなガリ勉になっても私たちの将来は見えない。

勉強をしても、幸せになれるとは限らないんだから。

 

超野球伝説

とはいえ赤点取ると野球部の練習出られないからやべーよ

 

Shota

野球部がんばれww

 

芦澤ゆみこ

でも、少しくらい勉強しないと好きなものも続けられない気がする。

先生や親は、私たちのことを思って言ってくれてると思うし。

 

最後のコメントに、言葉を返す者はいなかった。

自然な流れで、触れてはいけない話題だったかのように暗黙の了解で蓋をする。

 

美樹はスマホを置いて勉強机にだらりと腰かけた。

 

分かってるよ、そんなこと。

勉強に向き合えば、目標ができる。目標ができれば、目指さざるを得ない。

そうしたら秋とのバンドに向き合えなくなる。それが怖いのだ。

 

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* * *

 

翌日、リビングには塾のパンフレットが大量に置かれていた。

善純は夕食を食べながら、その一枚一枚に目を通した。

 

「ここなんか、いいんじゃないか。遊ぶ暇もないくらい、みっちり鍛えてくれそうだ」

善純は紙の束から数枚を取り出して、美樹の前に並べる。

「ほら、この中から、どれがいいか選びなさい」

 

美樹は一番ポップなデザインのものをつまむ。

「安心の実績!超難関校合格実績No1の受験専門学習塾!」

そんな煽り文句に、美樹は嫌気が差してつまんだ指を離す。

 

重厚なキャッチコピーとは裏腹に、チラシはひらりと落ちて行った。

「行かない」

絞り出す美樹の声に、善純は食卓を強く叩いた。

 

「お前、これからの世の中勉強もできないでどうするつもりだ。

音楽なんか、仕事になるもんじゃないだろうが!」

酒のせいではないのだろう。睨む善純の顔は赤らんでいた。

 

「私だって、やりたいことがある!

勉強ができたって幸せになれるとは限らないじゃない!」

 

少なくとも、秋とバンドができなくなるのは私にとって不幸せだ。

美樹は怒鳴る善純を無視して、早足で自室に駆け込んだ。

 

* * *

 

クラクラを開くと、見慣れないメンバーがいた。

 

mai 49分前

皆さん初めまして♪ メゾン・ド・ドッグスというクランから来ました、maiです♡

 

Shota 48分前

まいさんよろしく!星高の人だよね?何年生?

 

mai 48分前

そうです♪ いつも紺のブレザーと緑の鞄で学校行ってるよ♡

 

maiと名乗るそのプレイヤーは、チャットでの積極的な発言と、緻密に計算された多彩な戦術で、瞬く間にメンバーの心を掴んでいった。

 

maiは何年生なのか、何組の誰なのか、本人に繋がる情報は一切洩らさなかった。

自分は遊びに来た身だから、あまり踏み込みたくない、というようなことを言った。

 

しかし、その謎めいた雰囲気に加え、同じ高校生とは思えないほどの指導力・リーダーシップに、いつしかメンバー全員が注目していた。

maiはクランに加入して3日という、異例のスピードでサブリーダーに昇格した。

 

* * *

 

あの日から数日間、父が塾通いについて言及することはなかった。

美樹も父との会話を避けていた。

 

クラン「星高」もmaiの加入で一段と活気づいていた。

それまで雑談の多かったチャットが、メンバー同士の助言・質問の場へと変わった。

 

みき。

maiさん、教えるのガチでうまいよね。同じ高校生とは思えない!

 

mai

えー?そんなことないよぉ♡

 

超野球伝説

ほんと! うちの野球部の監督より……いや、やめておこうw

 

mai

うーん、一番は知識かな? youtubeを見たりして勉強もするけど、普段の勉強も落ち着いて考えたり、論理的に説明したりするときに役に立っているよ。

 

みき。

えー、勉強が?

 

mai

うん、だってちゃんと勉強すれば伝えたいことも伝えられる。

だから勉強は恋にも部活にも役に立つんだよぉ♪

 

「勉強すれば伝えたいことも伝えられる」

その一文が、美樹の頭の奥に強く張り付いた。

 

これまで勉強かバンドかの二者択一を迫られていた美樹にとって、そうした考え方は考えもしないことだった。

方程式を解くことが、英語の穴埋めをすることがバンドにも役立つとしたら……。

 

maiという人は、とても頭が良く、部活も恋も充実している人なのだろうと、美樹は思った。

でも、頭が良くてモテて部活もできる「マイ」なんて人、うちの学校にいたっけ?

 

* * *

 

2


「美樹、最近勉強がんばってるね」

桜木町での路上ライブの日、秋はギターを肩から下しながらそんな風に言った。

 

「まあね」美樹は褒められたことに動揺しながら辛うじてそれだけ返す。

「お父さんにまた言われてるの?」

「ううん、そうじゃない。はじめは怒られたけど、勉強もバンドのためだと思ってやり始めたら、何も言わなくなったよ」

 

実際に善純は、美樹が勉強に取り組み始めてから、あまり勉強時間のことも塾通いのことも口にしなくなった。

 

「へえ。美樹が勉強がんばってるなんて、珍しいよね」

秋は、流れる人混みを背に、小さく笑った。

美樹はわざと口を膨らませると、「珍しいとはなんだ」と拗ねてみせる。

 

「ちょっとある人にヒントを貰ったんだ」

「ある人?」

「うん。……ほら秋、そろそろライブ始めるよ。紙袋かぶって、紙袋」

 

あのやり取りのあと、maiはすぐにホームクランへと戻っていった。

彼女が何者だったのかは、結局誰にもわからないままだった。

美少女転校生や、伝説の生徒会長といった推論が飛び交うばかりだった。

 

その日のライブは、桜木町の雰囲気と紙袋をかぶった二人組というミスチョイスがかえって注目を浴び、若いカップルを中心に多くの観客が集まった。

 

観客の中に、一人だけ古臭い丸メガネをかけた中年男性が混じっていた。

父の善純だった。

 

歌の途中で息が詰まりそうになるのを、美樹は堪えて歌う。

なぜ父がここに?ライブのことは、友達にしか話していないのに。

 

父はいつもの仏頂面で、演奏を眺めていた。

紙袋の仮面をかぶった自分に、父は気づいているのか、美樹には分からなかった。

 

「舞浜本部長」

部下らしい若い男が、父に移動を促す。

父は相変わらずの仏頂面のまま、唇を少しだけ動かす。

 

がんばれ。

 

美樹には、父がそう呟いたような気がした。

 

桜木町の駅前は、オレンジ色の街灯が今日も、明るく輝いている。

迷いを捨てた美樹の歌声も、街灯に負けないくらい、眩しく輝いた。



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