私は自室のベッドに横になって、無機質な白い壁紙を見ていた。
手元のスマホを握りしめる。
さっきまで父親の手にあったスマホだ。
スマホの中を見られた?
いや、パスワードがかかっている。見られるはずはない。
それでも湧き出てくる嫌悪感が、唾となって口の中に溜まる。
私は父が嫌いだった。
父と思ったことすらなかった。
15歳になった年、突然私と母の家に転がり込んできた見知らぬ男は、私に佐藤という名字を与えた。
父が何をしたわけでもない。
ただ、その存在そのものがどこか生理的に受け付けないのだ。
スマホを目の前に持ち、クラクラを開く。
資源の豊富な村を探して、繰り返しボタンを押していると、不思議と心が真っさらになり、気分が落ち着いた。
目当ての放置村を見つけると、ジャイアントを横一列に並べ、その後ろからウィザードで刈り取る。
守られるウィザード。守るジャイアント。
どんな気分なのだろう。
大砲に打たれ、弓矢で射られても前に踏み出す大男。
そんな大男の後ろで悠然と電撃を放つ髭男。
私がそんな想像をしていると、リビングの方で大きな音がした。
人の歩く気配。父だろう。
しかし、どこか普通でない様子がある。
反射的に飛び起き、自室の扉から顔を出す。
父はどこか悲しそうな顔でコートを着ていた。
「何、してんの?」
「アイスだ」
「……は? アイス?」
「お父さんはアイスを買いにコンビニに行くんだ」
「あ、そ」
お父さん、という呼称が気に入らず、私は首を引っ込めた。
どこか行ってしまえ。そう思った。
「お父さん」が本当にどこかへ行ってしまうなどと、露ほども思わずに――。
* * *
「秋ちゃん、お父さん見てない?」
次の日の放課後、帰宅した私が自宅の扉を開けると、夜勤に出かける母はそんな風に言った。
「知らない……けど」
「お父さんからメールが来たのよ。しばらく出かける、探さないでって」
「えっ……?」
私は昨夜の父を思い出した。
どこか興奮しているようでありつつも、悲しそうな表情が浮かぶ。
昨日クラクラをしながら寝てしまった私は、朝も父の姿を見ていない。
そもそも、普段から父は私が起きるより早く家を出るから、顔を見ることもない
「会社は?」
「来てないし、連絡もないって」
一瞬、事件とか事故とかいう単語が脳裏をよぎった。
「これ、失踪届け出した方がいいのかな」
不意に出た言葉に、一番驚いたのは私だった。
母も一瞬目を丸くしたが、いつもの優しい顔に戻って、「大丈夫よ」そう言った。
「わざわざ仕事のコートと鞄を持って出かけたんだから、自分の意思で帰ってこないんでしょう。
それらしい事件や事故も聞かないし、何より自分でメールしてきてるんだから」
「そうだけど、自殺とかさ」
すると母は少し首を傾げて笑った。
「大丈夫、あの人にそんな度胸はないわ」
母は少し無理をしていたのだろう。
それでも母は、何事もなかったかのように仕事に出かけた。
残された私は1人、リビングのソファに寝転がって資源狩りをしていた。
何となく玄関の扉が開いて父が帰ってくるような気がして、途中からマナーモードに切り替えた。
ふと、昨夜父が座って私のスマホを手に取っていたあたりに目をやる。
汚いものを見るような目で父を見下ろした自分を想像する。
そのあとバタバタと出て行った父の表情を思い出す。
私が父を追い出したのだろうか。
* * *
「もしもし、秋? 明日出さなきゃならない英語の宿題もうやったー?」
クラクラを遮ってかかってきた電話を受けると、電話先の美樹はそんな風に訊いてきた。
美樹は最近落ち込んでいた。
所属していたクラン「星川高等学校」からキックされたのだ。
どうやらリーダーのnicoの想いの相手に手を出したからキックされたらしい、とか、そんな噂が学校では流れている。
そんな美樹も少し元気を取り戻したようだったが、どこか声に元気がないようで、私はそんな美樹を無下にはできない。
「やってないけど」
「マジ? なんだー、見せてもらおうと思ったのに。でも今回の宿題、けっこう内申点に響くらしいからやっといたほうがいいよー」
内申点、か。
唇さえ動かさず、口の中で呟く。
普通に大学を受験するなら内申点なんて関係ない。それでも人は、人から何らかの評価をされると思うと頑張らざるを得ない。
それでも。
確かにやっておかないと面倒な問題として、英語の宿題は横たわる。
そういえば、宿題は自由英作文だったような気がする。
私は怠さを抑え込んで立ち上がり、リビングの隅に置かれた旧式のノートパソコンを立ち上げた。
イマドキ、スマホがあればパソコンなんていらないのだけれど、何かを調べて書き写すのだとしたら、パソコンのほうが使いやすい。
くすんだ色のパソコンは、時折ジジッと焼けるような音を発しながら、懸命にYahoo!を開こうとする。
調べたいのは、「自由英作文 例文」。
そう、面倒な宿題なんて、こうして一瞬で終わらせてしまえばいいのだ。
しかし、「自由英作文」の「じ」まで打って、私の指は止まった。
「うわ……」
思わず、一人の部屋で私は呻く。
検索窓に「じ」と打ち込んで出てきた予測ワードを、私は一つ一つ摘み上げるように見る。
「女子高生」「女子高生 趣味」「女子高生 遊び」
恐らく父が打ち込んだのであろう言葉に、かすかな性の匂いを感じ、私は軽い吐き気を覚える。
自分も女子高生には違いないのに、「女子高生」という言葉にどこか犯罪的な響きを覚えるのはなぜだろう。
しかし、汚いものほど見たくなってしまうのが人間なのかもしれない。
私は父の見たページを見たくて、ブラウザの履歴を開く。
たとえそこに女子高生のエロ動画が出てこようとも、それはそういうものとして、或いは父をそういう汚い生き物として認めることで、諦められる気がした。
「……?」
しかし、表示された履歴に私は首を傾げた。
少なくとも、予想していたようなエロ動画や援交掲示板の類は出てこなかった。
「女子高生 接し方」
「女子高生 話題」
そんな検索履歴の中に、不自然な語句を見つける。
「女子高生 娘 趣味」
「女子高生 連れ子 話題」
娘、連れ子……。
その言葉が自分を示すものだと気づき、私は顔が赤くなるのを感じる。
これじゃまるで、私を苦しめていたみたいじゃないか……。
検索履歴の一つ一つが父の苦悩の履歴として残っているようで、私は慌ててページを閉じた。
私にとって、父は邪魔でしかなかった。特に何かをしてほしいと思ったことはないし、何かをしてもらった覚えもなかった。
それだけだった。父は仕事だけが大切で、私に興味などないのだと思っていた。
しかし、そうではなかったということだろうか。
静かな動揺に、私はyoutubeを開く。
宿題を終わらせる気など、とうに失せていた。
音楽でも聴いて、気持ちを落ち着かせるのだ。
youtubeのトップが表示されると、そこにはクラクラ実況の動画が一面に並んでいた。
どれも私が見た覚えのないものだった。
そして、誰かが見なければトップページにクラクラの実況動画は表示されない。
あるとすれば、父しかいなかった。
母はパソコンを使えない。思えば、父は誰にも見られないよう、隠れてパソコンを見つめているときがあった。
父がクラクラをしている。
真面目で冗談も言わない、仕事のことしか考えていないような父が、クラクラをしている。
思い出したのは、昨夜私のスマホを手に取っていた父の姿だった。
私と打ち解けたいと思った父は、共通の話題を探して私のスマホに手を伸ばした。
それがクラクラであればいい、そんなことを思いながら。
そして私に見つかり、父は出ていった。
出ていく間際の父の悲しそうな眉が、口元が思い起こされる。
バカじゃないの。
今度は声に出して呟く。
バカじゃないの。不器用で一直線な父も、父の関心に気づきさえしなかった私も。
私は握りしめていたスマホの電源を入れ、クラクラを開く。
次の対戦で活気づくクランチャットに親指を置いて、力を込めて画面上を滑らせる。
aki
父が、失踪しました。
こんなことを書いたらクラメンたちは何と言うだろう。
赤の他人である彼らは、それを鬱陶しく思うだろうか。
思いながらも、私はその文字を送り出した。
何事にも本気になれなかった私は、顔が見えないからこそ本気で人と向き合えることを知った。
顔が見えないクラクラの世界だからこそ、余計なことは気にせず本気で助けてくれるかもしれない。
aki
失踪した人を探すには、どうしたらいいんでしょうか。
父を連れ戻したいんです。
――お父さんのバカ。早く帰ってきなさいよ。
私は父も見ているかもしれない遠くの空を思い切り睨みつけた。
空では白く、そして暗い雲が、ゆっくりと蠢いていた。
To be continued...
最終章・第三話>coming soon
最初から読む>【クラクラ小説】プロローグ メゾン・ド・ドッグスのふたり
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